つい数日前、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言があった。
そこから起きる性の差別に関する議論。
そもそも、五輪憲章に男女平等ってのははっきり示してるし、立場考えたら絶対あってはいけない発言。
日本は性差別に関しては世界に遅れてるのは間違いないのですが、それにしても時代錯誤な発言だったと思う。
ただ、一方で女性側の意見にも過激な発言があるのも確か。
性差別というのは根深い問題だと自覚する。
そもそも、差別ってなぜ起きるのか・・・?
世の中は平等のようで平等ではない。
人間にはどこかでマウントを取りたいって意識が無条件にあるのではないか?
ある問題では差別されると訴えても、別のどこかでは無意識に差別してるケースを多々見かける。
無意識に自分が優位に立ちたい。
そんなものが、人間の本能としてあるんじゃないかと。
差別の一番著名で一番危険なのはたぶん人種差別だろう。
自分を守りたい。その意識が人間の本能としてあるのかなって考える。
とはいえ、それはジェノサイドに繋がる一番危険な可能性が高いわけで、当然差別しないように訴えてはいてもそれでもなくなる気配は一向に見えない。
世の中、特に障害を抱えてこの世界にいると多様性って言葉はあちこちで聞かれるし、当然その中には差別をなくそうって声は多く聞かれる。
ただ、何千年と差別があり、それをなくすとなるのは、とてつもない労力がかかるのではないか?
差別というのが人間の本能で来るものだとしたら、ルールで縛る以外にどれだけの方法があるのだろうか?
生きづらさJAPANというのは様々な生きづらさを扱っている。
当然、差別という問題を避けて通るわけにはいかない。
もちろん、理想は差別のない世界で、そのためにできることをやるしかないのだが、差別が完全になくなる世界は果てしなく遠い。
そして、自分も人間である。感情もある。
すべての人を差別せず平等に扱えるのか?
正直、自分は疑問に思う。
差別を解消するキーワードとして、多様性がある。
デジタル革命が起きた1960年代のシリコンバレーはまさに人種のるつぼと聞く。
ただ、日本という国は単一の価値観で成り立った国。
その国が多様な価値観をどこまで受け入れられるだろうか?
その多様性を受け入れることができて初めて差別問題に切り込めるのだが、どれだけの人が多様性を受け入れられていくのか?
時代は変わるとはいえ、元首相が平気で差別する世の中。
時間がかかる根深い問題なのを痛感する。
生きづらさJapan