昔、「恋愛に障害者枠はない」って言った人がいて、それをtwitterで呟いたら、凄くいいねがついた記憶がある。
今日の読者投稿の炎上のきっかけが性に関する話が原因とまで書いたが、そのきっかけが「ひきこもりも恋愛したい」と言うところから始まったらしい。
あの読者投稿では触れたい問題は別のところにあったので、恋愛や性の話は一切端折ったけど、障害者と恋愛、性って話題もそれはそれで議論する価値はあるだろう。
とはいえ、きっかけの会合で話されたことは自分が伝えたいこととは違うし、共感できる内容でもないから、そこで話されたこととは別の角度で書いていこうと思う。
自分は三年前まで恋人がいた。
6年間交際していた。
別に嫌いになったわけではなく、お互いの将来を見据えて前向きに破局したのですが、好きなまま別れること自体は嫌いになって別れるよりは辛かったとはいえ、交際してる期間はたくさんの幸せがあった。
別れたことは残念ではあったけど、一方で自分の力が足りなかっただけのことであって、別れた代わりに自分をもっと成長させて、いつか素敵な人が現れたとき、幸せになれればいいなと。
実際、交際してみて恋愛の素晴らしさは理解したし、機会があればもう一度恋愛したいなとは思う。
だけど、付き合ってみて、付き合うことの責任も同時に感じることになる。
自分だけの人生ではない。相手の人生も背負うことになる。
もし結婚を考えていれば、それは一生の責任を背負う。
それを障害を抱えた状態で背負うわけだ。
障害を抱えた恋愛はお互いの理解がないと、相当な困難が伴う。
それでもその覚悟があるなら、付き合った方がいい。
それは将来のかけがえのないパートナーになるから。
でも、中途半端に、それこそ身体目当てで付き合うぐらいなら、友達のままで良いと思う。
中途半端に付き合ったとしても、決して長くは続かない。
恋愛に障害者枠はないって冒頭の言葉、そのときは深く考えなかったけど、障害者だからといって恋愛できないわけではないし、健常者でも恋愛できない人はできない。
恋愛に限れば、障害者だからってハンデは多少あってもそれは個人の努力で補える程度だ。
もちろん、出会いなんて巡り合わせもあるから、常日頃チャンスがあるとも限らないけど、信じていけば誰だってチャンスはあるんじゃないかな?
自分も恋愛経験は豊富ではないけど、でも恋人がいた期間はないわけではない。
もちろん、恋愛が絶対ではないけど、障害を背負ってるから諦めるのは違うとは思う。
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本題とはちょっと逸れるけど、大人ってのは行動に責任が常に伴ってくる。
常に責任を背負う必要はないと思うけど、いい加減に生きてれば当然それに関する責任は常に伴う。
それは言葉一つでも同じこと。
自分一人の人生なら多少いい加減に生きてもいいと思うけど、真剣に恋愛をしたいと考えるなら、障害者なりにでもいいから責任の意味を考えるべきだと思う。
自分なりでいいから責任の取れる人間になれれば、あとはタイミング次第なんじゃないかなと。
責任から逃げてる人間には、本当の意味で幸せにはなれないんじゃないかな?
自分だったら、そんないい加減な人とは付き合いたくないな。
生きづらさJapan